ケロケロぴーの未知標パート2

家主ケロケロぴーの思い出し思い出しの日記です。

高校の履修科目について

 高校の履修すべき科目を受けておらず、単位不足になっている生徒を抱える学校の問題が毎日取りざたされています。私も該当年齢の子どもがいるので、注目していますが、私の場合は、「やっぱりそうだよね」と、予見していた範囲のことでした。
 春、履修科目の説明を学校で受けてから、「こんな配分で、ちゃんと履修すべき科目取れているのかな」と思ったからです。実は、先生へも「倫理がないんですけど、いいんですか」と質問したときに「センター試験に今はないんです」と言われ、そうなのかなと思って、センター試験の科目を調べるとちゃんとある。なのになぜ、「ない」という言い方をするのだろうと、ずっと思っていました。
 この問題が出てきたとき、この先生の発言で生まれた私の胸の奥に生えた不信の芽がにょきにょき伸びてきて、履修科目と単位数とこの問題の記事を調べてみました。
 社会科は、地理歴史と公民に分かれており、地理歴史は世界史が必修で、プラス日本史と地理のどちらかを選び、公民からは、現代社会と倫理と政治・経済から一つ選べばよいことになっていました。(地理歴史の科目はそれぞれA・Bがあり、単位数が違いますが、大雑把に言うとそういう選択だと理解して読んでいってください)
 国際化が叫ばれている今、世界史が必修なのはわかりますが、大学で選択しなければ、自分の国の歴史も、中学校程度の知識で終わってしまうのかというのが、なんとも、日本の過去のできごとが軽んじられているのを象徴しているようです(少なくとも履修の単位数を決めた方がたには、母国の歴史は重要ではないと判断されたような選択の仕方です)。
 世界史より日本史を選ぶ傾向があって(センター試験での選択科目では、日本史を選択する人が圧倒的に多いそうです)、そのために、センター試験では同時に選択しないだろう世界史の履修をしてなかったのは、「試験に使わないから」という理由だけなのでしょうか? 芸術や体育などを履修しなかったのも、受験に関係ない科目だったからなのでしょうか? 私が気になっていた公民の教科は、現代社会を選択する人が多くて、倫理や政治・経済を選ばないということなのでしょうか?
 私自身はセンター試験ではなく、共通一次世代ですが、当時は倫理・社会と世界史を取っていて、結構、安定的にいい点が取れた科目で、他の科目の難易度からみたら、易しい問題が出る科目のような印象がありました。だから、今回、しきりに「試験を受ける生徒のためにした」ような言葉が多くでていましたが、生徒のためというより、教える側の都合(倫理や世界史をきちんと教えることのできる先生がいないのではないか)のように思えたのです。
 実は、私は大学は中国史が(一応)専門で、教職の免許も持っているので、世界史を教えれなくちゃいけないはずなのですが、今、世界史の本を見ても、「ああ、そんな名前や地名があったなあ」くらいしか頭に残っておりません。あんなに高得点が取れた倫社もしかり。大学入試のためというのは、社会科のそれぞれの科目の専門の先生をそろえられなくなってきた・または、うまく配分できなくなってきたことが問題のように思えてならないのです。(きっと、理科の科目や芸術の場合もそのような傾向があるのでは?)
 私としては、日本で生まれた人が日本の言葉と歴史をきちんとやるのは、当たり前で、それができた上で、教養として(専門を勉強する大学生になる前のお勉強として)他の科目も、きちんとやるべきだと思います。そして、それぞれの科目を教えてくれるべき先生がたは、なるべく専門の科目を生徒に教えるようになれば、よりふくらみある授業ができるのではないでしょうか。先生を選ぶのも試験ですから、やはり、試験ができる人を作る先生が多いのでしょうか。
 「受験に必要ない科目に時間をかけるのは……」と言っている限り、日本の大学から魅力ある人材が生まれるとは思えないのです。
 私の高校時代の面白い先生は、社会や理科の科目専門の先生だったり、芸術科目の先生でした。(国語や数学の先生でもいい先生はおりました。どの先生も勉強の内容より、その先生たちが専門の分野を本当に熟知しており、また、いろいろな趣味を持っておられて、そういう脱線したお話に感心してました)
 
 
 

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