ケロケロぴーの未知標パート2

家主ケロケロぴーの思い出し思い出しの日記です。

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映画『神の子たち』

 朝、新聞を読んで映画『神の子たち』の上映会に気がつきました。今月関東へ行く用事あるのですが、その時に、一泊して、翌日、神奈川で上映のドキュメント映画を観に行こうかと思っていたので、隣の市での上映会に、びびびッと反応してしまいました。ただ、午前には、日本語教室のお手伝いがあります。それも映画の会場とは真反対の方向の場所だったので、映画に間に合うかな? ぎりぎりたどり着いたとしても、人数が多くて会場に入れなかったらどうしよう? と不安になったので、電話で問い合わせをしました。大変丁寧な対応で、当日と前売りでは料金が違うことが新聞記事では書かれてなかったので、前売り扱いにしていただけるとのこと。観ることができるのを確認でき、午前中の日本語教室にでかけました。
 いままで、何度か日本語教師の養成講座を受けたことがあったのですが、それは、自分の日本語を磨くためという別の理由でのこと。秋からお手伝いするようになった日本語教室では、私は小学生・幼児担当ですが、ポルトガル語が話せないので、ほとんど言葉が通じません。日本語教室に来る大人の外国人は、日本語をおぼえたいために来る、熱心な方なのですが、その子どもたちは、おぼえなきゃという気がありません。あいさつやひらがなをおぼえることも、(しっかりおぼえてないので)何度もやるとあきられます。言葉ができる子たちは、算数や国語をやるのですが、「できないからやりたくない」、「5分程度の時間も集中できない」のです。
 進んで勉強できるようになる年齢は中学校後半から高校生ぐらいだと、ある塾のHPに書かれているのを読んだことがありましたが、とにかく早く、年齢の低いうちに日本語をおぼえて欲しいと思ってしまいます。そうでないと日本の義務教育の勉強についていくことはできないからです。
 土曜の午後というのは、午前の日本語教室で、私の苛立ち・あせりがピークになっていて、ぐったりな気持ちなのですが、日本語教室が終わると、映画を観るために、目的地に車のナビを合わせ、出発しました。(後半は映画について)
 この映画は、フィリピンのゴミの山に住む家族たちを映したものです。フィリピンのゴミの山といえば、スモーキーマウンテンが有名で、フィリピンの貧困の象徴のように言われていたところでした。映画の舞台は、1995年に廃止になったスモーキーマウンテンの後にできたゴミの山で、映画の初めを観ているかぎり、スモーキーマウンテンと同じ状態に観えました。
 しかし、映画のクランクイン直後、このゴミの山に雨が降り続き、ゴミの山が崩れ、多くの人が下敷きになる事件が起きます。このため、新たにゴミを入れることを禁止し、このゴミの山に住む人々は、すでにあるゴミの中から、ゴミを拾うことになります。
 私はここで、自分の認識間違いに気がつきました。『「ゴミを拾う」イコール「悲しい仕事」』と思っていたのに、ここに出てくる人々は『「ゴミを拾う」イコール「一つの仕事」』という思いで、ゴミを拾っているのです。主人公の一人の12歳の女の子は「飢えても泥棒をしない」と言う。ゴミを拾う男は「昔、泥棒だった奴もここでゴミを拾うようになって、(自分でかせぐことができ)泥棒しなくなったよ」。
 フィリピンには仕事がない。農業も水害などが起きれば、もう生計を立てることができない。けれど、ゴミが運ばれてきて、(フィリピンのゴミは分別されずごっちゃになってくるので)資源になるゴミを拾えば、それを売って、金を得ることができるようになる。彼らは、食べる糧を得るためのお金を稼ぐためにゴミを拾っていたのでした。
 ゴミさえ順調に搬入されれば、魚や時には肉が入った食事も食べることができる。子ども達も学校へ(全員ではないが)行くこともできる。しかし、閉鎖になったゴミの山は、次第に売れるゴミが少なくなり、食事にこと欠くようになり、学校に行けなくなり、夫や父や娘が出稼ぎに行ったりして家族が分散したり、他の人の物をぬすんだり……。ゴミの山でゴミを拾うことが、怠け者のする仕事ではなく、生きていくための大切な仕事に見えました。
 しかし、映画の中で出てくる水頭症の子どもや未熟児で死んでいく赤ちゃんのように、生まれてくるときに異常な子どももゴミの山の生活者の中では多いし、子どもたちもたくさん、ゴミを拾う労働に従事しています。ゴミの山に住んでいる大人たちも、学校へあまり行っていない人がいました。どれほどの子どもたちが学校にいけているのだろうか。子どもたちは、このゴミの山の生活から抜けることができるのだろうか。
 映画は、ゴミの搬入再開し、元の生活に戻って、おかずがある食事を食べることができるようになったところで終わってしまいました。監督の四之宮氏は、この後の映画を製作中で、この映画に映っていた家族たちのさらなる現実が出てくるようです。
 「日本の問題は、大した問題ではないのよ」と8年位前に我が家にホームステイしていったフィリピンの修道女のエヴァが言っていました。世界の中では、日本での問題は、大した問題ではないのでしょう。日本の子どもたちの学力が落ちたことは、五十歩百歩。でも、話すこと(日常会話程度なら、ある程度いればできるようになるけど)、読むこと・書くことができないのは、どうでしょうか? 中学校を出れば、生活できるお金をかせぐ仕事は、きっとできるけれど、それだけで、いいのでしょうか? 肉体労働ができなくなったら?
 私は、来週の土曜の午前、また、あせって怒ってしまうでしょう。厳しくして勉強をしなさいと言い続けるのか、楽しく遊んだ方がいいのか、心が揺れます。

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